3Dプリンターが仔馬を救う!3D CADを使ったことのない装蹄師と技術支援機関が生み出した肢勢異常の画期的な治療法
「最初は半信半疑だったのに、今は頼りでしかありません」
馬のためのオーダーメード樹脂蹄鉄を作ると聞き、素人ながら馬の体重に耐えられるのかと思ったが、開発を主導したプロの装蹄師も同じ心配をしていたようだ。しかし、聞くとそれは、馬だけでなく、すべての競走馬育成関係者にとってメリットのある、画期的な治療方法だった。
3Dプリンターに全く縁のなかった装蹄師が、最初はとまどいながらも、目的にかなった手法を開発し身に着けていく技術移転の成功譚を、日本中央競馬会(JRA)・日高育成牧場の装蹄担当の金子 大作 氏と北海道立総合研究機構(道総研)・機械システムG研究主任の川島 圭太 氏へのインタビューでお届けする。
目次
脚の異常を治療するための樹脂製蹄鉄を3Dプリンターで
シェアラボ編集部:北海道は日高のJRA日高育成牧場におじゃましています。都会の喧騒から離れた、本当に素晴らしい場所ですね。
JRA 金子氏:日本とは思えない景色ですよね。ここは、1歳馬や現役競走馬が育成調教を行う施設で、東京ドーム321個分の広さを誇ります。北海道の日高地方は、日本の競走馬の約70%を生産・育成しています。
シェアラボ編集部:3Dプリンターを活用した樹脂製蹄鉄(以下3Dシュー)を開発されたと聞きました。基本的なことをうかがいますが、そもそも蹄鉄とは何のためにあるのでしょうか。
JRA 金子氏:主たる目的は、蹄(ひづめ)の保護、そして運動能力を高めることです。家畜である競走馬は野生の馬と比べて蹄が弱い一方で、人を乗せて人工の環境を走るので、削れたり痛みやすいんですね。それを予防するために蹄鉄を装着します。また、地面をしっかり蹴ることで、より速く走れるようになります。蹄鉄は、馬のスポーツシューズでもあるのです。
今でこそ、蹄鉄を取り付ける装蹄師のなり手は少なくなりましたが、昭和45年までは国家資格だったんですよ。
シェアラボ編集部:競走馬には欠かせないものなのですね。なぜ新たな蹄鉄の開発が必要だったのでしょうか。
JRA 金子氏:実は、蹄鉄には第三の目的として脚や蹄の病気の治療があり、そのなかの1つに、仔馬の脚の姿勢(肢勢)の矯正があります。今回のゴールはこの、個々の馬で異なる蹄に合わせた治療用蹄鉄の開発になります。
シェアラボ編集部:矯正ですか。3Dプリンターは、人の歯の矯正にも使われています。個人個人の形状に合わせられるからですが、それと同じですね。
JRA 金子氏:大人の馬の体重は400-500kg。それを支えるのが脚であり蹄なので、肢勢異常は競走能力に影響を及ぼすこともあります。仔馬の間に自然治癒する場合も多いのですが、治療が必要となる場合、その選択肢の1つとして、装蹄による治療があるのです。
シェアラボ編集部:どういった経緯でこの方法に取り組むことになったのですか。
JRA 金子氏:私はJRAに入社以来ずっと装蹄師をしていまして、2年前に任されたのが、治療用3Dシューの開発でした。JRAの社員は転勤族で全国を転々とするのですが、その都度新しいテーマが与えられます。仕事道具と言えばハンマーや蹄を切る鎌ぐらいだったので、PCも3D CADもない状態からのスタートでした。
既存の治療用蹄鉄の課題
シェアラボ編集部:その名の通り蹄鉄は鉄でできているものでしょうから、樹脂で作るのは大きなチャレンジだったでしょう。
JRA 金子氏:実は、現代ではすでに蹄鉄にいろんな素材が使われています。競走馬用には軽量のアルミですし、治療用には木やアルミ、そして樹脂を使います。ですので、樹脂製自体は珍しくないのですが、既存の治療用蹄鉄にはいろいろな問題がありました。
治療用蹄鉄は症状の変化により形状を変更し取り換えます。木の蹄鉄は、その都度、削って自作しなければならないので大変なんです。また、一般的な樹脂の矯正用蹄鉄は汎用品なのでサイズが3種類ほどしかなく、角度が合わずとれやすい。外国製なので取り寄せに時間がかかるし、値段も高いので、いくつも使うことを考えると、気軽に買えるものではありませんでした。
特に、仔馬の場合は、爪が薄くて釘を使えないため、アルミや樹脂製を多量の接着剤でがちがちにするのですが、爪が一番成長するこの時期に固めるのは、ベストな方法ではない。そこで、爪の成長を邪魔せずに肢勢異常を治せる手段を探していました。
外部連携によって動き出した開発プロセス
シェアラボ編集部:外れにくく、すぐ手に入るものとして、3Dシューに目をつけた訳ですね。しかし、経験も設備もない中、何から始めることができたのでしょうか。
JRA 金子氏:最初は、誰に聞けば良いかもわからず、フィギュアを作っている会社に相談したところ、業務用途ならばと道総研を紹介してもらいました。研究内容が固まるまでは無料だったこともあり、相談しやすかったのです。
道総研 川島氏:当場の設備を使用される際には時間課金や材料費がかかりますが、話を聞くのは何回でも無料です。最初の一年はほとんど費用はかかってないと思います。現在は、共同研究として有償で取り組んでいます。
シェアラボ編集部:動きだしてからの開発プロセスを具体的に教えてください。
JRA 金子氏:まずは、造形データを作らなければなりませんから、3D CADを自分で触れるように、道総研に指導してもらいました。原データの取得については、始めはフォトグラメトリーを使いました。
その後、3Dスキャナーと3Dプリンターを購入し、今に至ります。馬は動きますから、30秒で撮れるスキャナーはありがたいですね。
道総研 川島氏:3Dモデルの作成用には、当場のデザイン研究グループが3D CAD上の拡張プログラムを活用し、3Dシューのモデリング支援機能を開発しました。このおかげで良い3Dモデルを作ることができたので、造形不良もほぼ発生しませんでした。
シェアラボ編集部:3Dプリンターを全く知らなかった金子さんがここまでたどり着けたのは、外部連携の組み方も良かったのでしょうね。
JRA 金子氏:はい、そう思います。道総研がデータ作成と造形、私たちJRAがフィールドの提供と現場のフィードバックという形で役割分担していたのですが、途中から、同じく3Dシューの研究をしていた旭川高専・苫小牧高専とも連携を開始し、材料面のアドバイスおよび強度試験を担ってもらっていました。
高い治療効果だけではない数々のメリット
シェアラボ編集部:3Dシューの効果はいかがでしたか。
JRA 金子氏:重度の症例への使用例もありますが、期待した効果を得ることはできたと思います。さまざまなメリットがあり、大きな手ごたえを感じています。
1つ目は、個々の蹄の形状に合わせられること。汎用製品ではなかなかフィットせず外れやすかったし、ズレてるからとはがしたら一度接着剤をつけてしまっているのでもう使えない。3Dシューは、フィットするまで何度も設計調整できますので、ぴったり合うものが作れることは、非常に大きな成果です。
2つ目が、爪の成長を阻害しない程度の接着剤で済むこと。つま先にあるスリッパのようなつっかけに接着剤を付けるだけで済むので、爪の裏から側面まで大量の接着剤や包帯で固める汎用樹脂蹄鉄やアルミ板よりも、仔馬の成長に優しい手法です。
3つ目が、繰り返し造形できること。壊れたり外れてしまった時も同じものをスペアーとして準備できるので、本当に楽になりました。
4つ目が、コスト。材料費は、1つ3,000円くらいなのですが、4回履き替えても12,000円。これで仔馬の価値が下がらなければ安いものです。
最後が付けやすさ。従来の方法では、大量の接着剤が固まるまで7分ほどかかっていましたが、3Dシューだと、つっかけ部分の接着だけで済むので1分で装着できます。動きたがる仔馬の片脚を7分も持ち上げ続けるのはとても大変で、装蹄師にとっても馬にとっても大幅な負担の軽減になります。
シェアラボ編集部:材料は何を使われているのですか。
JRA 金子氏:これまで3種類で試しています。PLAの方が作りやすい一方、ABSの方が強度はある。ただ、両者の間で強度の有意な差は見られませんでした。PLAよりも強度のあるナイロンも試しました。接着性も良かったのですが、土壌の水分や日光に弱く、3日で強度が半減するため、活用はあきらめました。
現在は、PLAと炭素繊維の混合素材を試しています。最後に熱処理が必要ですが、強度は一番ありそうです。ただ、業界全体への普及を考えると、造形不良のおきにくいPLAを選ぶことになるでしょう。
シェアラボ編集部:お話をうかがうに、多くのメリットがありますね。材料の目途もつきつつありますし、もう、実用レベルに達したと言って良いのでは。
JRA 金子氏:治療用としては、ほぼ実用レベルだと思います。実験では重い大人の馬に履かせて激しい運動をさせてみるなど、あえて無理をしたので壊れましたが、そもそも、治療用は運動しませんから、問題ないレベルだととらえています。
普及のためのデータ作成マニュアルの無料公開とファクトリー構想
シェアラボ編集部:技術面の基本的な課題がほぼクリアされているのですね。普及のロードマップは、どのようにイメージされていますか。
JRA 金子氏:今、5か年計画の折り返し地点なので、あと2年で普及の入り口くらいには行きたい。生産者に知られること、現場の装蹄師に受け入れられることが必要なので、実績を積み上げ、しっかりと発信していくつもりです。
馬はとても高価なので、新しい技術は現場になかなか受け入れられないんです。今では普及した接着剤での装着も、釘が唯一の方法だった20年ほど前に登場した時は、怪訝な顔をされたものです。今は、「これいいよな」って言われるんですが笑。
シェアラボ編集部:これだけ成果がはっきりしていると、早くみなさんに使ってもらいたいとも思いますが、馬の健康に直接影響するものでしょうし、慎重になる気持ちもわかります。
JRA 金子氏:ですので、治癒の実績と症例数が必要なのですが、対象となる1歳馬は毎年数が限られており、一年に試せる数は限定されます。十分な症例を集めるには、もう少し時間が必要でしょう。
2022年暮れに初めて、技術者である装蹄師向けの研修で本取り組みを発表しましたが、まだ、馬の育成を行なう生産者(牧場)に広く知られている訳ではありません。今は、話を聞きつけた生産者から、従来方法では治せなかった馬の治療の相談が来る程度ですが、そのほとんどで良い結果が得られています。
シェアラボ編集部:治療効果の認知と信頼が得られれば、はずみがつきそうですね。
JRA 金子氏:ただし、認知・理解の他に、普及におけるもう1つハードルがあります。3Dデータの作製です。誰がどうやって作るか、を解決しなければなりません。今は作れる人が私以外にいないですし、私もまだ道総研の技術指導が必要ですからね。考えられる方法は2つあります。
1つが、3Dデータを作れる人を増やすことです。PCさえ使えれば3D CADの技術を習得できることは私で証明済み。何もない状態から学び始めたので1年かかりましたが、マニュアルがあれば短縮できます。現在、他の装蹄師への指導を通じて、整備を進めているところです。
マニュアルの完成の暁には、多くの装蹄師がタイムリーにデータ作成できるよう、ネット上で無料公開したいと思っています。
シェアラボ編集部:それはすばらしい!業界全体でベネフィットを享受しようとされているのですね。
JRA 金子氏:今はまだどの材料が良いかを試している段階ですが、材料特定さえできれば、特化型3Dプリンターなら10万円ちょっとで済みます。組織的にやっている開業装蹄師ならば、コストメリットを考えて、使ってくれるのではと期待しています。
シェアラボ編集部:3Dデータ作成のもう1つのアプローチとはどういったものでしょうか。
JRA 金子氏:馬産業に関係する関係団体(JRA・NAR・軽種馬協会など)が造形を担うファクトリーとなり、全国の装蹄師からの造形依頼に応えられるようにすることです。そのためには、脚の画像を送るだけで造形できる技術の確立が必要です。
フォトグラメトリーにせよ、3Dスキャナーにせよ、装蹄師の機器の保有や操作スキルの問題がありますので、もっとシンプルに、例えば蹄の裏と両サイドの3枚の写真だけで造形できる状態を目指したいのです。
シェアラボ編集部:造形部分をうまく分業できれば、データ作成のハードルは下がりそうですね。実現性はいかがですか。
JRA 金子氏:一度、両前脚でやってみたところ、片方はだめでしたが、もう片方はぴったりでした。蹄の形状と角度を正確に把握するためには、脚裏の写真をちゃんと水平に撮ってもらう必要がありますが、解決は可能だと思います。
助からなかった馬を助けられる!10年後には標準的な治療法に
シェアラボ編集部:今後の展望を教えてください。
10年後には、3Dシューが脚の病気の標準的な治療法の一選択肢として使われているかもしれませんね。今は仔馬をメインに調査を進めていますが、将来的には大人の馬の治療法としても有効だと考えています。
そもそも馬は頭と心臓が大きく、体重の6割を支えている前脚が病気になりやすいのですが、痛みで片脚を上げていると重さに耐えられずにもう片方も悪くなり、結局立っていられなくなります。脚の異常は、体全体の健康に大きな影響を与えるので、脚の治療はとても大切なんです。
今回お話しした肢勢異常以外にも、蹄の割れや痛みなど、さまざまな疾患があるのですが、痛いと釘での装蹄ができません。釘を使わない3Dシューは、大人の馬にも有望な治療法です。そのためには、もっと強度を高め、安全性を担保しなければなりません。
道総研 川島氏:強度については、材料の検討に加え、造形方法にも工夫の余地がありそうです。積層角度を変えたり、肉厚にしたり、ハニカム構造にするなどを試してみるつもりです。
昨年末の発表内容は北海道内のテレビでも取り上げられました。道総研に入って以来、自分の携わった研究でこんなに反響があったことはありません。牛やヤギ、羊にも蹄があるので、広く知られれば、他の家畜にも使われるかもしれません。
JRA 金子氏:馬は高価なので治療に手間をかけます。なので、高価な種牛へのニーズはあるかもしれません。ただし、牛の体重は馬の倍の1トン。作り方や材料も適したものへの調整が必要です。
シェアラボ編集部:今回の3Dシューは治療目的ですが、競走馬への適用可能性はあるのでしょうか。
JRA 金子氏:金属3Dプリンターを活用できれば、強度や摩耗耐性を確保できますが、今の金属3Dプリンターは機械も材料も非常に高いので、当面は治療目的ということになるでしょう。
でも、本来なら助からなかった馬を助けられる可能性が広がる。今はそれで十分です。
あとがき
3Dシューのことを丁寧に説明してくれたJRAの金子氏だが、任務を請け負った当初は、履かせてもぐしゃっとなると思っていたそうだ。できるかどうか確信がなかったので、しばらくはこの話をどこにも出さず、ひっそりやっていたらしい。
何もわからないところからのスタートだったが、途中から道総研との連携が始まり、あまり当てにしていなかった取り組みが案外いけそうとの感触を得た今はもう、当てにしかしていないと言う。
金子さんの表情はとても明るかった。50歳を超えてからの挑戦が着実に実っていることもあるが、なにより馬にとって望ましい治療を開発できたことに喜んでいた。
もっと多くの馬を救うべく、心はもはや、日本全国への普及に向いているようだった。
ShareLab運営会社の社長です。日本の製造業ならば、3Dプリンターの質を高め、使い倒すことができるはず。そう信じて業界の応援を続けています。